中学1年の社会の歴史分野で学習する「鎌倉時代」
前回の「鎌倉時代のまとめ② 執権政治と鎌倉文化」では、北条氏が執権政治を行うプロセスと、鎌倉仏教をはじめとした鎌倉文化について詳しく解説しました。
今回は、元寇と鎌倉幕府の滅亡について詳しく取り上げていきます。
この記事は、たけのこ塾が中学生に向けて、TwitterやInstagramに投稿した内容をもとに作成しています。
ぜひ、あなたの勉強にご活用下さい。
①「元寇」モンゴルの襲来
日本で鎌倉幕府が成立したころ、チンギス・ハンがモンゴル民族を統一して「モンゴル帝国」を建てました。
その後、モンゴル帝国の5代目である「フビライ=ハン」が、現在の北京である「大都(だいと)」に都を移して、国号(国の名前)を「元」と定めました。
このフビライ=ハンが日本を従えようとして使者を送ってきましたが、鎌倉幕府の執権であった「北条時宗」がこの要求を拒否してしまいました。
それで、元は征服していた高麗(当時の朝鮮半島にあった国)の軍とともに、日本に攻めてきました。
元軍は2回にわたり日本を襲来してきており、1回目の戦いを「文永の役」、2回目の戦いを「弘安の役」といいます。
また、この2度にわたる元軍の襲来のことを「元寇(げんこう)」といいます。
1274年におこった「文永の役」では、元軍の集団戦法や火器によって、幕府軍は苦戦しました。
しかし、元軍は海上の戦いに不慣れだった上に(モンゴル軍の主力は騎馬軍団)、内紛(仲間割れ)がおこったり暴風雨に襲われたりしたため、引き揚げてしまいました。
1281年の「弘安の役」では、海岸に築かれた石塁(石垣のこと)や幕府の御家人の活躍により、元軍は上陸できませんでした。
さらに暴風雨にあったため、元軍は引き揚げてしまいました。
結果、元は日本を征服することに失敗してしまいました。
↓に「元寇・モンゴルの襲来」について、覚えておかなければならない語句の問題が載っています。
ぜひ、チャレンジしてみて下さい!
【問題】( )の中に入る適当な語句を答えましょう。
(1) ( ① )がモンゴル民族を統一し、( ② )を建国した。
(2) (②)の5代皇帝である( ③ )が都を大都に移し、国号を( ④ )に定めた。
(3) (③)が日本を従わせようとして送った使者を退けた、当時の執権は( ⑤ )である。
(4) (④)の軍が、1274年に日本を攻めてきた戦乱を( ⑥ )という。
(5) (④)の軍が、1281年に再度日本を攻めてきた戦乱を( ⑦ )という。
(6) (⑥)と(⑦)の戦乱をまとめて、( ⑧ )という。
解答は↓の通りです!
【解答】①チンギス・ハン、②モンゴル帝国、③フビライ・ハン、④元、⑤北条時宗、⑥文永の役、⑦弘安の役、⑧元寇
問題は全部解けましたか?
間違えたところは解答を見て、しっかり覚えておきましょう!
テストで解答する際、「元寇」の「寇」を「冠(かんむり)」と間違って書いてしまう中学生が多いので、注意して覚えましょうね。
また、「北条泰時」と「北条時宗」を混同している中学生も少なくありません。
・北条泰時…3代執権で、「御成敗式目」を制定した人物
・北条時宗…8代執権で、文永の役・弘安の役で元軍を退けた人物
間違えないように、気を付けて下さいね!
②鎌倉幕府の滅亡
鎌倉時代、経済活動がさかんだった畿内(近畿地方)を中心に、幕府の政治や荘園の支配に反抗し年貢を奪う武士が、あらわれました。
このような武士は「悪党」とよばれました。
悪党のような武士があらわれる一方、幕府に従っていた御家人は分割相続によって生活が苦しくなっていました。
分割相続とは、「親の財産である土地を子どもたちが全員で分ける相続のやり方」でした。
分割相続だと世代が経つほど、1人あたりの土地が狭くなるため、御家人の生活は苦しくなっていました。
生活が苦しくなった御家人は借金をして、土地を失う者もいました。
そこで、幕府は御家人を救うため、借金を帳消しにする「徳政令」を出しました。
しかしその結果、御家人に金を貸す者がいなくなったため、借金ができなくなった御家人の生活はますます苦しくなってしまいました。
生活が苦しい御家人や、元寇で十分な恩賞をもらえなかった御家人の間で、幕府への反感が強まっていきました。
このような幕府の状況をみて、朝廷の「後醍醐天皇」は政治の実権を取り戻すため、倒幕を計画しましたが、失敗して隠岐(島根県)に流されてしまいます。
しかしその後、新興武士である「楠木正成」や、有力御家人の「足利尊氏」たちも倒幕に参加したため、1333年に鎌倉幕府は滅んでしまいました。
↓に「鎌倉幕府の滅亡」において、覚えておかなければならない語句の問題が載っています。
ぜひ、チャレンジしてみて下さい!
【問題】( )の中に入る適当な語句を答えましょう。
(1) 鎌倉幕府の政治や荘園の支配に反抗し、年貢を奪う武士である( ➀ )があらわれた。
(2) 生活が苦しい御家人を救うため、幕府は借金を帳消しにする( ② )を出して、御家人の失った土地を返させようとした。
(3) ( ③ )天皇が鎌倉幕府の討幕を計画するも、一度は失敗し隠岐に流された。
(4) 有力な御家人である( ④ )や新興の武士である( ⑤ )も倒幕に参加して、1333年に鎌倉幕府を滅ぼした。
解答は↓の通りです!
【解答】①悪党、②徳政令、③後醍醐(天皇)、④足利尊氏、⑤楠木正成
問題は全部解けましたか?
間違えたところは解答を見て、しっかり覚えておきましょう!
③鎌倉時代後半の年代を覚えるゴロ合わせ
今回の記事も、元寇や徳政令など年代を覚えておいた方がよい出来事がたくさん出てきました。
これら鎌倉時代後半の年代を覚えるための、ゴロ合わせを載せておきますね。
ぜひ、参考にしてみて下さい!
・1274年 文永の役がおこる
⇒ 元軍が意地になったよ(イジニナッタヨ)、文永の役
・1281年 弘安の役がおこる
⇒ 元軍が一気に敗戦(イッキニハイ)、弘安の役
・1297年 永仁の徳政令が出される
⇒ 一度に来るな(イチドニクルナ)、徳政令
※YouTubeに『鎌倉時代の年号の覚え方』のゴロ合わせ動画を投稿しているので、↓のリンクからご覧下さい!
記事のまとめ
以上、中1社会・歴史「鎌倉時代」元寇と鎌倉幕府の滅亡について、詳しく説明してきました。
いかがだったでしょうか?
これまでの歴史の流れと今回の記事のポイントをまとめると…
①フビライ=ハンの元軍が襲来する(元寇)
→ 1274年・文永の役、1281年・弘安の役
②生活が苦しい御家人を救うため、幕府が徳政令を出す
③後醍醐天皇が倒幕を計画するも、1度は失敗する
④楠木正成や足利尊氏も倒幕に参加したため、1333年に鎌倉幕府が滅亡する
今回も最後まで、たけのこ塾のブログ記事をご覧いただきまして、誠にありがとうございました。
これからも、中学生のみなさんに役立つ記事をアップしていきます。
何卒、よろしくお願いします。